河童(コウゴ)岩の事跡、河邊川にあり。
元亀年中雲州尼子家の軍将、当国松山城主吉田左京亮義辰、成羽の城主三村修理
亮家親のために松山を攻落されて、主従二騎此所へ落のびて、三村紀伊守親宣大勢
にて追かけ、我討取らんと切てかゝるを、主従会釈もなく、多勢を左右に引受け大
ひに戦ふ。然れ共大勢にて取囲み、郎党も討たれければ、左京亮も是までと思ひ、
河水に飛入り、此石に腰をかけ大音声を揚て、吉田左京亮と云ふ剛の者が自害する
を見よとて、腹十文字に掻切て、水底に飛沈みける。形象勇々しかりけるとなり。
是よりして土人此岩を吉田岩と称せしとなり。其後雨夜なとは陰火燃へ怒れる声あ
りし故、漁夫雨夜には川へ出ず、村童川の辺に臨めば、土人此岩より河童出と言て
戯れをなせしより、吉田岩の名を失して、河童岩と称す。予按に陰火燃へ怒れる声
の有しは、野狐のわざなるべし。
唐土訓蒙図集に曰く、俗に河童と称するものは水虎なり。状三四歳の小児の如く、
甲に鱗あり、頭虎に似るところありと記す。豊後には多く出ると云事、和漢三才図会にのす
総社市--滝山入口の尾崎、延原の仏岳、日羽の死人谷、美袋の志島奥には、昔、年寄りを捨てたという伝説がある。(『吉備路の伝説』)
総社市井山--宝福寺法堂の天井に庭瀬松林寺の住職●山和尚がかいた竜の絵がある。夜になると、この竜が前庭の白蓮池の水を呑みに出るので、修行僧が恐れて目に釘を打ち込んだところ、出なくなったという。水呑の竜という。(『吉備路の伝説』)
総社市日羽--日羽谷の上流に底なしの淵があり、大干ばつでも枯れることがない。昔、この淵に大きなくもが住んでいて村人や牛を引き込んでいたと伝える。(『昭和町史』)
確固たる出拠や所載典拠は不明なのに、かなり古くから人々の口にのぼり、「民間説話」、「口頭伝承」等の名のもとに説話・伝承史の波間に見えかくれする、そのような断片的だが息の長いモチーフが、ときには口碑となって都鄙の巷を行き交い、あるいは歴史記録や物語、絵巻などの文字・視覚芸術に流入して文献への定着を果たすこともある。いわば遠い記憶ともいうべきハナシの遺伝子が、さまざまな文化形態に融合しながら、新たな説話を生み出して行く。